いつの間にか自分の子供も大学生になってしまった。自分が卒業したのはついこの間のような気もするのに・・・ 　「もう一度大学時代に戻りたいか？」ともし質問されたら、きっと 　「Ｎｏ．」と答えると思う。それくらい、私にとっては辛い冬の時代だった。まともに思い出してしまうと、嫌なトラウマばかりがよみがえる。そこで、半分フィクションを混じえながら振り返ることにした。“Faction　Novel”という副題が付いているのはそのためである。これは“Fact”と“Fiction”をミックスした私の造語だ。 　これは兵庫高校48回生の３年２組の担任通信で連載した。中には、 　「この○○さんって先生の今の奥さんですか？」などとすぐに短絡しようとする女生徒もいた。どこが事実でどこが創作か、その判断は読者の皆様にゆだねるが、 　「恋愛とは成就しないもの」この冷厳たるテーゼは今も私から離れない。 　この作品、余りにも長編なので、前編・後編、２回に分けてお送りする。

Faction Novel　The　Univ

（１）プロローグ 　　修学旅行を終えると、高校教師はいよいよ「追い込み」にかからねばならない。建て前上はともかく、高校の授業の大部分は大学受験のためだけに存在しているのは疑いないし、極論すれば高校そのものの存在意義も大学の予備校としての価値しか持たないのではないかという懐疑も生まれる。一流大学に何人合格させた（入学させたかではない！）かが高校のバリューを測るものさしとされ、その数字に振り回されているのが我々高校教師の現状である。 　受験制度そのものを否定するものではない。純粋にペーパーテストだけで合否を決定するシステムは、機会均等という思想にかなり近いものと思う。それだからこそ、批判はあっても今日まで存続してきている。だが、高校教育のすべてをそこに隷属させていく考え方は、文部省や教育委員会がいかに公式に否定しようとも、教育界の底流にどんよりと淀み、滞留している。進学実績さえ上げれば、「よい生徒」が集まり、「よい学校」になるという神話は決して死んでいない。　 　クラス面談も始まるわけだが、何がなんでも大学に行くべきだという前提で話をしたいとは思わない。口先はともかく、本当に大学に行かなければならない積極的動機を持っている人は残念ながら少ないと思う。大部分の人にとって、大学生活は社会に出るまでの「執行猶予」に過ぎず、４年という貴重な歳月と多額の学費を費す値打ちが本当にあるかどうか、もう一度考え直してみてほしい。「学問がやりたい」なんて気軽に言わないでもらいたい。一つの学問分野で身を立てようと思ったら、毎日１２時間は机にかじりついて過ごすくらいのことが実際にできないと話にならない。一日たかだか２〜３時間の家庭学習すら満足にこなせない人の言うことではない。本音が「まだまだ４年間遊びたい」であるなら、それを親にも教師にもはっきり言うべきだ。「遊びたいために勉強する。」これはこれで筋が通っている。もっともそれなら遊びの費用は自分で稼ぐべきだが･･･ 　さて、これまでにいろいろなクラスを担任し、担任通信にもいろいろな昔話を書いてきたつもりだが、大学時代のことについては断片的なことしか書いていない。それは、多分私にとって大学時代と言うのは、何もかも中途半端で嫌な思い出の多い、いわば人生の中では灰色の時代だったからだろう。学生時代に思う存分好きなことのやれた人達が、誇らしげにその思い出を語るのを聴くとき、たまらない妬ましさと、取り返しのつかない焦燥感にかられる。考えてみたら、私が結婚してから始めたマラソンや登山、その他もろもろの挑戦は、いわばあの頃に失った時間を取り戻そうという潜在意識によって成立しているのかも知れない。逆に大学時代に満ち足りた生活を送っていたら、今日の自分はないのかも知れない。そう考えると、あの頃の辛抱も報われるような気もする。 　ところで、本シリーズは、少しばかり私小説仕様で組み立ててみようと思う。ただ、そのものずばりでは、私のプライバシーも守られず、関係者に迷惑がかかるといけないので、内容は事実と虚構を半々にミックスし、（FACTとFICTIONを併せてFACTIONとしたのはそのためだ。）登場人物はすべて仮名にした。どこが本当でどこが嘘かは、決して明らかにするつもりはなく、読者諸君の慧眼にお任せすることにしたい。 　もっとも２０年前の学生生活は、現在のそれとは大きくイメージが異なる。まず、経済的豊かさの違い。先日、一浪して大学に入学した教え子が学校へ遊びに来たときに聞いた話だが、下宿は今はワンルームマンションが主体で、その家賃たるや月４万５千円。トイレ、風呂、キッチンは言うに及ばずエアコン、冷蔵庫、電話が標準装備でついている！　私が最初に入った下宿は６畳一間で９千円。電気ごたつと電気ポット以外のものは置かせてもらえなかった。コインランドリーなどというものは全くこの世に存在せず、洗濯機すらないわが下宿では、真冬でも凍りそうな水で洗濯する以外に手がない。考えてみたら当世流行の避難所よりひどい待遇を経験してきた私である。だが、授業料は安かった。現在年間３９万６千円だが、私の頃は年間３万６千円である。だから、国公立大学に行くということがいかに親孝行であったか、わかるだろう。 　大学のムードも今とは段違いである。私達が入学後、いや入学の決まる以前に いきなり洗礼を受けたのが、けたたましい学生運動のアジテーションや立て看板であった。あの一方的かつ洗脳的なプロパガンダに、全く影響を受けずに４年間過ごせた人がいたとしたら、余程修行のできた仙人のような人だろう。多感で激情しやすい若者の多くは、あの情報洪水の中で、流れに身を任せるかもしくは逆らうにせよ、人生の舵取りに何らかの影響を受けたに違いない。私もまたその一人であった。 　めったに行くことはないが、現在多くの大学は静穏であるらしい。アジ演説なんてついぞ聴くことはなく、立て看板は時々見かけても誰が置いているのかすらわからない。自治会の多くは選挙が成立せず崩壊し、大学側は厚生費の使途に困っているとも聞く。学園祭の中身は遊びオンパレード。たまにまじめな講演会やシンポジウムを企画しても人が集まらない。ストライキなんて言葉すら知らない学生が増えている。授業の出席率は高いらしいが、学問に賭ける学生は圧倒的少数派だと、地元の某国公立大学に進学したある卒業生が嘆いていた。 　体育会系や文化系のサークルは敬遠され、学外で活動する同好会系が好まれる。それも離合集散が激しく、バブルのようにできてははじけているらしい。バイトは授業料や生活費のためではなく、小遣い稼ぎのためにやる。飲食店関係が大部分。夏休みが長くなった。私学では９月末まで休みという何とも羨ましい日程。 夏は海外旅行に冬はスキー。昔は鈍行乗り継ぎ・ユース泊りのしけた旅でもできたら幸せな方。一つ言えることがある。現代の典型的日本人は学生時代が最も幸福で、後は下り坂を転がるように辛い生活が待っている。「学生時代くらい遊ばせろ。」思えば当然の要求なのかも・・・少なくともオウムにかぶれるよりはまし、ご両親もそう考えられたら納得するのでは・・・合掌 　 　　　（２）それはあの日から始まった 　吹き上げる霧の中で鈴原守はじっと瞑想していた。今の自分は本物だろうか、それとも偽物だろうか。２０年前、科学者・研究者になることを切望していた彼、少しずつ、その目標に近づいていたはずだった。だが気がつけば、そこからは全く離れたルート上にいる自分を確認し、もう後戻りはできなかった。後悔はしていない。けれど予定通りの進路に進んでいれば、今ごろ全く違う自分が存在していたであろうことに強い好奇心がある。おそらく地方大学の研究室の片隅で、専門分野の実験に没頭している自分を想像した。多分結婚もできず、不精髭をはやし、汚い白衣に身を包んで、中年らしく腹の出てきた自分の体型にもはや嫌悪感など感じず、世間を驚かすような新発見を夢見てはいても、学生時代憧れたノーベル賞には程遠い処にいることに今更焦りもないが、決してあきらめたわけではないと自分に言い聞かせながら、微量分析機の納得の行かない実験結果に首をかしげて、気の遠くなるようなやり直し実験の過程にため息をついているだろうか。　振り返って見れば、コンパスの狂いは合格発表の日から始まっていたのかも知れない。あの白いボード上に自分の名前を見つけたとき、生まれて初めて体がとび跳ねるような感激を体験したとき、バカボンのパパではないが、自分の頭から大事な歯車が１個はずれて転がって行ったのかも知れない。あそこでもう一度気分を引き締め直すということが自分にはできなかった。それまでの受験競争よりもっと厳しい競争が待っていることが、頭では理解できているつもりでも、体にそれが伝わらなかったように思える。 　１９７×年４月３日、入学式の会場である大学体育館のホールは独特の緊張感に包まれていた。新入生達がほぼ着席し終わった頃、会場後方からホイッスルの音とシュプレヒコールの波が押し寄せてきた。赤いヘルメットの一団が、あたかも彼らのために設けられたかのような中央の通路を通ってデモ行進してきたかと思うと、演壇にどやどやと上がり込み、マイクの前にリーダーが立とうとした。そのときである。前の方の席に座っていた新入生の中から１名が立ち上がり、この集団に食ってかかった。と、もう１名がそれに続いた。２名はたちまち赤ヘルの連中ともみ合いになった。あわてて大学職員が止めにはいった。２名の勇気ある新入生は憤懣やるかたない表情で引き下がった。この乱入はどうも大学当局公認の上で行われているようであった。彼らは同学会（全学自治会）を名乗っていた。すでに自宅に郵送されてきたパンフレットで、守もその存在は知っていた。そして、彼らを批判するあるグループのパンフレットには、この同学会はでっちあげの暴力集団だとあった。前年に発生した浅間山荘事件、連合赤軍リンチ殺人事件以来、守はこの手の集団には強い嫌悪感を抱いていた。社会正義を表向きの旗印にしながらも、目的が手段を合理化するといわんばかりのテロや無法の数々。これらには、理屈以前の、生理的いや本能的な忌避感が守にはあるようだ。もし、自分の席がもっと前の方だったら、彼もあの２名に加担したかも知れなかった。　延々とアジ演説が始まった。一部を除いて、何を言っているのかさっぱりわからない。日本帝国主義打倒、竹本処分粉砕、筑波大学開校阻止、成田空港建設阻止、狭山差別裁判糾弾、などのスローガンが連呼され、周りの取り巻き赤ヘルがそれに唱和する。全く自己陶酔もいいところだ、と守は感じた。ヘルメットの下には手ぬぐいで顔を隠し、蛇のような目だけが覗いている連中は、とても正義の味方のようには守には見えなかった。高校時代の「解放教育」にも感じたことだが、特定の価値観にしか過ぎないものをあくまで一般論のように押しつけるのはやめてほしいと常に感じていた。それが「良心の自由」というやつだ。満足に泳げもしない者に溺れている人間を助ける義務はない。 　赤ヘルどもがやっと立ち去った後で、学長の挨拶が始まった。この中身も恐ろしく空虚だ。偉そうなこと言う前にあの連中を何とかせんかい。 　いきなり不快な印象で始まった大学生活。前を見て歩いているつもりでも、少しづつ軌道が狂わされていることに守は気付いていなかった。守の出身校は全国的に見ればそれほどの有名校ではない。ただ、校名に県の名がついているから、読み間違えられることがないくらいのものである。「長田高校」はしばしば「おさだこうこう」と呼ばれるらしいが・・・マイナーな高校出身の者が一番困るのは、「情報不足」である。大学生活を生き抜く秘訣のうち最大のものは、この「情報戦争」に勝つことである。受講する講座を選択するとき、「仏の・・・」と称される教官の講義にするか、「鬼の・・・」と呼ばれる教官にするかでは単位の取り易さに天地ほどの差が生じる。アルバイトにしても、割のいい口を見つけるかそうでないかで、学生生活のゆとりがまるで違ってくる。安くてうまい飯屋を見つければそれだけで幸せな気分になれる。 　守はまずこの情報戦争の序盤戦で出遅れてしまった。友達ができなかった訳ではない。だが、有効な情報をくれる友人にたまたま巡り会えなかったのだった。第２外国語でフランス語を取ったのがそもそもの間違いであったかも知れない。 ドイツの固いイメージに較べて、フランス語の甘いイメージについつられてしまったのだが、これは２つの意味で誤りだった。一つは、ドイツ語よりフランス語の方がはるかに難しいこと。これは文法などもそうなのだが、この大学の教養部のフランス語教授陣には、ドイツ語に較べて「鬼の・・・」が遥かに多かったことが挙げられる。もう一つの誤りは、フランス語を取る学生の過半数は「数学専攻」希望者であると言うことである。数学を目指す連中は、生物学方面を目指す守にとってみれば、同じ理学部の中でも「両極」に位置する。勉強の面でも話が合う訳ないし、性格・趣味も大いに違うのだ。そして、もう一つおまけを挙げるとすれば、この年のフランス語クラス（１クラス＝４５名）には、女子学生は１名もいなかったのである。もっとも、理学部全体で見ても、２８１名中、たった１０名の女子なのであるが・・・　女子は毎年集団で同じ選択に固まる傾向があるらしく、この年はたまたまドイツ語に集中してしまった。これが翌年の新入生になると、１４名のうち８名がフランス語だったというのに・・・　高校時代に、守は男子クラスを経験していない。守の学年だけは特例的に「文理混合クラス」だったのだ。さあて、男ばかりのクラスとはどのようなものか・・・ 　　　（３）京間６畳フォーク 　下宿は吉田山の中腹、教養部の東門を出て徒歩で５分、自転車なら行きは１分、帰りは３分の距離にある。行きと帰りの時間差は下宿前の急坂によるものである。 まさに地の利は申し分なし、と言いたいところだが、通学時間が短ければ学校には遅れないという法則には古今東西の例外があまりにも多すぎる。高校時代、片道１時間近い通学を強いられていた守だが、年に２・３回ドジって電車に乗り遅れた時以外、遅刻はしたことがない。ところが、大学生活はその自由度ゆえに様々な陥穽を用意している。１コマめの講義は９時から始まるのだが、そのうちに出る必要のない講義はサボる習慣が身についてくると、日によっては２コマめ （１０時半）からでよかったりする。必然、その日は１０時まで寝ていても大丈夫、となるが、そのうち人間怠惰な方に流れるもので、だんだんバイオリズムは１０時起床に合ってきてしまう。ますます夜更かしするようになる、で悪循環。１コマめの講義の出席もだんだんと常ならぬようになり、単位を落としてはまずい語学までピンチになってくる。やがて守は痛い目をみるのである。 　守の部屋は道路に面した２階。京間の６畳と言えば団地サイズの８畳くらいな感覚で、確かに広いことは広い。だが相当に老朽化した家屋で、畳は凸凹である。 勉強机を置くと、４本の脚のうちの３本しかつかない。布団も下手な敷き方をすると、夜中に体がずっていきそうな気がする。家具と言えば、勉強机と椅子と、小さなタンス。そのうちファンシーケースが１つ増えたが・・・部屋毎の電気メーターというものがなく、置くことを許されている電気器具は、電気ポットにトースター、夏の扇風機に冬の電気ごたつ、あとはラジカセくらい。もちろんストーブ類はご法度。守は夏はともかく冬が越せるだろうかという不安を持ったが、それはやがて現実のものとなる。 　大家は８０を過ぎた婆さんで、欲の皮が突っ張っている。守が京都に下宿するということを聞いて、親類・知人は皆「京都の人間はお金に細かいから注意しなさいよ。」と異口同音に忠告してくれた。そのときは他人事のように聞き流していた守だが、この婆さんとつきあえばつきあうほど、その忠告が身にしみる。 　何しろ、電気ごたつを買うとき、「３００ワットでなければ困る」と注文をつけられたのには参った。市中に出回っている商品の大部分は、５００ワット以上である。さんざん歩き回ってやっと３００ワットを見つけたときにはほっとした。 寒い夜、ちょっと銭湯や買い物に出かけるとき、少しでも部屋を暖めておこうとこたつのスイッチをつけたままで下宿を出る。帰ると、必ずスイッチが切ってある。「鈴原はん、電気つけっぱなしどしたで。」と後で嫌みを言われる。それにしても、広い部屋がこんなときにはあだになる。おまけに木枠の窓からは隙間風が遠慮なく吹き込む。 　一番困ったのは洗濯である。婆さんは電気洗濯機を持ってるらしいが、風呂場の奥の方に置いていて、下宿人には使わせない。ちなみに風呂は一人で沸かすのはもったいないらしく、普段は銭湯に行っているようだ。当然洗濯は手洗い以外に仕方がない。男子学生が毎日こまめに洗濯などするはずがない。１週間分くらいまとめてやるものだから、結構な量になる。それでも夏の間はまだよかった。水道水も手が切れるような季節になると、もうどうしようもない。大きな鞄に洗濯物を詰め込んで実家に逃げ帰るしか手がない。この下宿に入居するとき、「近県の人に限る」という条件がついていたのが漸く理解できた。これは、週末には実家に帰れ、洗濯もそこでしろ、という意味だったのである。たまたま近県の出身だった守は、喜び勇んでその条件に飛びついたのだが、完全なミスチョイスだったわけだ。 　友人宅をうろつく生活を始めるようになると、ネックになってきたのが門限であった。守の下宿では門限は１１時。これはごく標準的であり、文句を言う訳にはいかない。（さる友人の下宿では何と門限は８時半。夜遊びどころか、銭湯に行くのさえままならない。）守は夜遊びなどする柄ではないし、そんな経済的余裕もない。だが、ちょっと友人の下宿で話し込んでいると、１１時なんてすぐに来てしまう。荒木という友人の下宿にはしょっちゅう行っていた。その下宿はいわゆるアパート形式で大家とは棟が離れており、門限もない。友人数名との議論が佳境に入った頃、そそくさと席を立たねばならぬのは誠に辛い。うっかり遅れて１１時を過ぎてしまうと、玄関にはしっかり鍵がかかっている。そんなときは公衆電話から電話して開けてもらうのだが、何回かそんなことが続くと、婆さんはいい顔をしない。守はそこで裏をかく作戦に出た。一旦門限前に下宿に戻り、婆さんが戸締まりをして寝た頃を見計らってこっそり玄関を開けて出るのだ。古い家で立て付けが悪いから、音をたてずに玄関の引き戸を開け閉めするのは高度のテクニックを要する。うっかりすると泥棒と間違えられかねない。だが、この方法はしばらくはなかなか有効だった。 　この京都では、下宿人はお客様ではない。大家の方は、「置いてやっている」感覚でいる。それというのも、大学に近い下宿は人気が高くて、１人出て行ってもすぐに後釜が見つかる。頻繁に追い出せば追い出すほど家主の方は家賃以外に「礼金」（これを要求するのは本当は借地借家法違反である）がその都度転がり込み、儲かる。だから、悪質な大家は何かと下宿人に難癖をつけて追いだそうとする。門限を守らない、とか、ちっとも大学に行かずに部屋に篭もってるとかいうのは絶好の口実である。親類達の言っていた「京都の人間・・・」は、全部ではないにせよ、かなり真実だと守は実感するようになった。 　それでも、高校を出るまでは、午後７時を回ってから家を出たことなど一度もなかった守にとっては、親元にいるときとは比べものにならないくらいの自由度だった。ただそれもうまく活用できればの話だが・・・ 　　　（４）自然科学ゼミナール 　高校時代、果たして目から鱗の落ちるような印象的な授業があったろうか、守は振り返ってみて思う。学園紛争後の、教師と生徒の間にわだかまるイヤーなムードの中で守は高校時代を送った。紛争の中で「受験教育」は、確かに否定されたのかも知れない。一流校への進学率向上を第一義的に目指す教育は影をひそめた。だがそこに生まれたのは、ぬるま湯の中でお互いに手抜きを競い合う教師と生徒の姿だった。「受験教育」しなくていいんだから、教科書など教えなくてよいし、ましてや補習などする必要がない。進学希望は個人の問題だからそれは自分で解決しなさい。教師達の後姿は、そう語っていたように守には思えた。生徒は生徒で、それなら自学自習でやり抜こうという者は少数派で、大半の者は周囲の状況に甘えているように感じられた。集中して聞けた授業は高々２、３名の教師のそれだけだった。後はすべて五十歩百歩、自己満足かあるいは単なる雑談に過ぎなかった。そのうちの何名かの教師は、そんな授業に自信満々なのだからやり切れなかった。 　大学に入学して、守が第一に期待したのは、もう受験勉強の延長のようなことはしたくない、ということである。親に絶対に浪人は許さないと宣言されていた守は、合格率を１％でも上げるため、部活動を自粛した。いや自粛とは名ばかりで、実質は帰宅部を強制されていたようなものだ。学校と自宅を往復するだけの３年間だった。受験情報一つとっても、教育環境としてはおよそ恵まれているとは言えぬ片田舎である。適切な教師のアドバイスも無く、自己流そのものの受験生活だった。この禁欲的かつ忍従的時間に耐えられたのは、大学生活への大きな期待があったからだ。それが、わざわざこの京都まで来て高校時代と同じ、いやそれ以上に盲目的な知識の詰め込みを強制されたのではたまらない。 　だが、教養部（筆者注；当時全学部の学生が２回生まで教育を受けた所）の講義はそんな期待をいともあっさりと裏切ってくれた。二言目にはきちんと予習をしろ、と要求する語学の教官。ぼそぼそと、とても後ろの席には聴こえないような蚊の鳴くような声で独り言のような講義をする「教授」。３０分遅く来て３０分早く帰る月給泥棒のような先生。中でも、守を失意のどん底へ突き落としたのは、まだ２０台の若さという代数幾何学の助教授だった。突然、訳もわからない数式を書きなぐり始めた。教科書を見てもどこを説明しているのかさっぱり解らない。どうやら第１章、第２章を飛ばして第３章の途中をやっているらしい。クラスに（この授業はクラス単位だった）ざわざわと不満の声が広がる。だがこの天才数学者は気にかける風もない。ミミズののたくったような記号の羅列を眺めて、時々不気味にヘラヘラと笑う。守を含めたクラスの大半があっけに取られる中、授業終了。何人かが教壇のもとに駆け寄り、抗議の声をぶつける。もっと、最初から解るように説明してくれ！　当然の要求である。だが、この数学者は平然と「僕も学生時代、同じようにやられたよ。」とのたまう。教育者になれ、と主張する学生達に対して、僕は数学者だ、数学者になりたい者だけがついてくればよい、という大先生。議論は全く平行線。まさにユークリッド空間である。この最初の抗議で、もうこの科目は捨てたも同然と感じたのはもちろん守だけではなかったと思うが、許せなかったのは、クラスの中にこの先生の抗議はよく解って面白い、という者が２・３名いたことである。ああ、呪われたフランス語クラス。数学者の頭の中身など永遠に解りっこない!! 　結局すべての授業の中で、行くのが愉しみだったのは、運動不足の解消になる体育実技だけだったと言ってよい。語学の授業は出席を取られるのでいやいや出ていた。実験科目も出席率はよかったが、こと細かい手順の実験を意味も解らず（予習が足らぬと言われればそれまでだが）マニュアル通りに遂行するだけの化学実験はしんどいだけだった。生物実験は高校レベルとあまり変らずもの足りなかった。意外に面白かったのは、志望分野とは異なる物理実験だった。とりわけ光学実験やオシロスコープを用いた実験は、高校時代に習った内容を実地に体験できて有意義ではあった。 　だが、生活リズムの乱れもあって、守の足は次第に教養部から遠ざかりつつあった。５月に履修届を出す頃には、もう出るつもりの全く無い講義が過半数に達していた。要領のいい学生は、出ない講義でも、ノートを誰に貸してもらうか既に折り合いをつけていたが、人間関係の下手な守にはそれもなかった。 　そんな折、同じクラスの中島という男（自然人類学−−−霊長類を扱う学問を志望していた）が、理学部の方で「生命の起源」ゼミと言うのをやっているそうだ、一緒に行ってみないか？と声を掛けてくれた。タイトルからして何となく興味を惹かれそうな内容だったので、守は何となく中島についていくことにした。実はこれが彼の大学生活の大きな転機になるとは・・・ 　生物物理学教室は、高校時代からの憧れだった。この学科があるということが守の志望校決定の最大の動機となったのである。もともと基礎医学方面志望だった守だが、医学部か進学断念かというギャンブルに挑む勇気はなかった。理学部なら基礎医学方面への進路は開けていると聞いて、安全策を採ったのである。生命の起源ゼミはこの生物物理学教室の１階の学生控室でやっているそうだ。ずらーっと並んだ初対面の顔ぶれを今も守は思い出す。チューター（進行のアドバイスをする教官）は研修生（大学院卒業後、ポストがなく研究室に残っている人）の仲田と言った。オパーリンの「生命の起源」という本を、順に「レポーター」を決め、議論しながら内容を深めていく、というこの形式そのものが、マスプロ講義に失望したところの守には新鮮だった。今から考えれば、随分稚拙で、バイオテクノロジー夜明け前の戯言だったかも知れないのだが・・・ そして、このゼミの連絡員（一種の世話役）に選ばれたことがきっかけとなって、守は自然科学ゼミナール（このようなゼミナールの連合組織）の事務局へ足を踏み入れて行くことになる。守はまだサークルには加入していなかった。体育会系は体質的にいやだったし、お遊び的同好会も性に合わない。政治性のあるサークルも何となくためらうものがある。そんな守にとって自科ゼミは格好の活動の場だった。 　自主ゼミ運動というのは、ひたすら無政府的に走りがちだった全共闘系の学生運動に対して、地味ではあるが大学教育改革の一環として生まれたものだ。教養部における十把一絡げのマスプロ教育を見直し、専門分野の教官との触れ合いをはかることを主目的とした。中には、「増加単位」として当局から公認されたゼミもいくつか存在する。それらは、堂々と大学の「履修の手引き」にも載っていたのだ。だが、個々のゼミがばらばらに活動していたのでは、やがて各ゼミは発足当初の理念を見失い、単なるおしゃべり会になってしまう。事務局の役割は、各ゼミを取りまとめ、お互いの横の交流をはかることにあった。具体的には年に数回の機関誌発行、講演会の開催、夏季の学習合宿などである。部室のような活動拠点は持っていないが、主として理学部内の学生控室を根城に活動していた。　砂漠のような教養部に較べ、理学部にいるというだけで守は何か安心感のようなものを感じた。彼は１回生ですでに教養部を放棄したのである。 　　　（５）鳴呼、男子クラスＳ１ 　高校時代、守の学年団の教務係に進歩的な考えの女性教師がいて、「男子クラスをつくるのは教育的に好ましくない。」と、「文理混合クラス」を編成した。そのため、守は理系ではごく当たり前だった男子クラスを経験していない。だからどうだというのだ、と問い返されると、女子とつきあったこともない守には返す言葉がないが、クラスに女の子がいるということは多少とも精神衛生にはいいに違いない。 　大学、ことに理学部という環境には女子が少ないことは覚悟していたが、いきなり男子ばかりのクラスとは予想だにしなかった。大学にクラスがあるのか？と訊かれそうだが、これも学園紛争の成果で、語学や必修自然科学系科目は、クラス単位で授業を受けるようになっている。一応、「担任」の教官も決められているが、守はとうとう一度もその先生の顔は見なかった。クラスでも厚かましい連中は研究室に押しかけて、その後一杯おごってもらったりしたようである。クラスにはもう一つ「自治単位」としての意味もある。教養部自治会は学生運動の内紛の過程で現在は執行部がなく「崩壊」したままであるが、ときおり一部セクトが主催しての「代議員大会」や「自治委員会」が開かれる。その代議員や自治委員の選出の基礎となるのがクラスである。 一通り自己紹介も済んで見渡してみると、さすがに多士斉々である。だが、誰とでもこだわりなくつき合えるタイプの人間ではない守のまわりには、いつの間にかあるグループが形成されつつあった。守はいわゆる遊び人タイプ（とりわけ浪人経験者に多いのだが）は、苦手である。どちらかと言うと、真面目意外にとりえがないような人物の輪の中にいることが多い。かといって彼自身が真面目かどうかは別問題である。 　また、どうしてもクラスの中には「現役グループ」と「浪人グループ」ができてしまうようである。ただし、面白いもので、現役でもどう見ても浪人に見える老けた奴は浪人グループに所属することが多く、浪人でも童顔で子供っぽい奴は現役のグループに溶け込んでいる。前者が遊び慣れていることは言うまでもない。 　ある教官が講義中の雑談でいみじくも言った。「クラスにたった一人でも女の子がいると、その子を中心によくまとまるものだ。」だが、ある先輩に言わせると、これは逆だという。特に、その女の子がクラスの誰かさんのモノになってしまうと、その他大勢は完全にシラけてしまうらしい。守のクラスはＳ１（エスワン）だったが、隣のＳ２には確かに一人女の子がいた。彼女・・・谷本貴久子は、口の悪い友人に言わせると、もし女の子の多い大学だったらおそらく誰にも相手にされないだろう、というのだが、結構クラスのアイドルとしてまわりに男を群らがらせているようだ。この貴久子との出会い、いやどちらかというとすれ違いが、やがて守に訪れることになろうとは・・・ 　やがて、Ｓ１の初コンパが召集された。場所は同窓会館だという。どんな立派な所かと想像していたら、汚い今にも潰れそうな平屋の座敷である。中央に練炭の炭火がいこしてあって、そこですき焼きをするらしい。男子クラスのコンパは荒れるという前評判は嘘ではなかった。守はそれまで酒をほとんど口にしたことはない。正月など親に無理矢理勧められてコップ１杯、猪口１杯くらいは口にしたけれど、不味いものだという印象しかない。ただ、親父の体質をひいていれば、それほど弱くはないはずである。ビールの乾杯で始まった宴会が、すぐにコップ酒になった。守も含め、まだ自分の酒量の限界どころか、酒の「性」も知らない者が多い。守は自分が「笑い上戸」であることを初めて知った。酒は美味いとは相変わらず思わないが、とにかく気分が高揚することは確かだ。 　周りではいろんな「上戸」がいる。宗教論議みたいなものを相手構わずふっかけている怒り上戸がいるかと思うと、高校時代の彼女に振られたことをめそめそと告白しだす泣き上戸もいる。それらが渦をまいているところへ、応援団員の柿山という奴が、余興をおっぱじめた。とうに肉のなくなった皿を２枚使って例の踊りである。応援団のコンパでは新入生は素っ裸でやらされるらしいが、今日はパンツをはいている。みんな手拍子で唱和しているが、誰もこんなもの見たいとは思わない。単なる馬鹿騒ぎである。 　守の方はやたらに体を動かしたくなっている。高校時代、最初は嫌で嫌でたまらなかった柔道が、試合をするようになってから楽しみになっていた。快感なのは、自分より小柄な奴をぶん投げることである。隣に座っていた坂口という男は、高校時代柔道部だったそうだ。こんなとき、下手に素人に挑んだりすると怪我をする。守は大胆不敵にも坂口に一本背負いを仕掛けた。坂口はもののみごとに受け身をして転がってくれた。もう他人が何をしているかわからないような混沌状態も、やがて幹事の鶴の一声でお開きとなったようである。だが、ぞろぞろと座敷を出るみんなに続こうとしたとき、畳の真ん中で正体不明となっている男がいる。まわりで何人かが介抱しようとしているが、彼は訳の解らぬことをわめいて動こうとしない。水戸の出身とか言う門脇である。もう意識朦朧意外の何者でもない。守も含め、やっとの思いで外へ連れ出した。門脇の下宿は中京区だという。 だとすれば歩いて３０分、いやこんなお荷物を抱えていては１時間かかるかも知れない。取りあえず鴨川の岸までは運び、そこへ寝かせた。ここは言わずと知れたアベックのメッカである。岸に沿って、一定間隔ごとにカップルが並び、甘いささやきを交わしている。その中に数名の男グループは、完全に浮いた存在である。重い門脇の体を横たえてやっと一息つき、しばし談笑していると、突然門脇がガバっと起きあがった。彼は傍らにいたアベックに向かって突進し、とても活字にできないような卑猥な言葉を吐き始めた。これはいかんと慌てて連れ戻しにかかる我々を振り切って、門脇先生、いきなり鴨川の水の中へザブザブ歩きだした。シラフでも歩きにくい所が、酔っぱらいに歩けるはずはない。たちまち彼の体は水しぶきの中に消えた。かくして、ただでさえ重い門脇の体は、たっぷり水を含んで尚更のお荷物となった。 　やっと下宿にたどりつき、すっかりおとなしくなった（寝てしまっただけである）門脇を、そのままにしておく訳にいかない。何と、パンツまで脱がせて着替えさせないといけない。その瞬間はまさに筆舌に尽くし難いグロテスクさであった。門脇はずばり言うならとびきりの醜男である。仮に、もしそうでなかったら、多少の分別はあったであろうに・・・失う物が何もないということは強い。こんな奴に限って、翌日には夕べのことなどきれいさっぱり覚えていないものらしい。 　翌日、自分の下宿で目を覚ました守は、頭がガンガン割れ鐘のように痛いことに気がついた。これが二日酔いというものなのか・・・変に納得した守だったが、 その日キャンパスで出会った連中と話をしているうちに、何と下戸で全く呑まなかった奴まで頭が痛いという。結局、原因は練炭火鉢の一酸化炭素中毒らしいということになった。くわばら、くわばら、まだ若死にはしたくない守であった。 　 　　　（６）夏を越えて 　大学の新入生がよくかかる心の病に「５月病」というのがある。入学後の緊張感がぷっつり途切れるとともに、陽気が暑気に変るこの頃、躁状態・鬱状態、様々な病態を伴ってそれは現れる。守のクラスでも何名かの学生がキャンパスからドロップアウトしてゆき、必修授業ですらその姿を見ることはなくなった。守が５月病の魔の手を免れたのは、まさに自然科学ゼミナールのおかげかも知れなかった。自然科学というものを、単なる公式や技術論でなく、社会的・歴史的に学べたことが、難解→興味の喪失というパターンに陥ることを避けさせたのだろう。 　高３のときに起こった連合赤軍事件以来、守は新左翼嫌いだったのだが、大学入学後、彼らの実態を見るにつれますますその嫌悪は強まっていった。自らの怠惰と退廃を後から理屈づけしようとする彼らの姿勢そのものが、守の体質とは相容れなかった。今になって思えば、正反対だから相容れないのではなく、共通点があるから反発し合う部分があったのかも知れない。思想的にはやや違和感を覚えながらも、守はＮ党系の学生運動家と親交を深めるようになっていった。彼らは当たり前のことを当たり前に語り合える人達だった。あの蛇のような目つきの新左翼とも、うつろな顔つきの宗教団体とも、見ざる・言わざる・聞かざるのノンポリ連中とも違って、彼らは人生や社会に真面目に立ち向かっていた。自然科学ゼミナールの周辺にもその方面の人物が多かった。もちろん、彼らに直接組織加入の「オルグ」を受けたこともある。だが、中学校の部活動で体育系の陰湿な「組織」に幻滅させられて以来、上意下達式活動にはアレルギーがあった。守は 社会主義的イデオロギーには一定の距離を置きつつも、「反暴力」という点に関しては彼らに協力を惜しまなかったつもりだ。だが、ついついクラスでも突出した発言が目立つあまり、守には「Ｎ党Ｍ同盟」のレッテルが既に貼られてしまっていた。そのせいで、最初は親しかった友人とも、段々疎遠になっていく者が出てきた。それでも、守は間違ったことを言ったりしているつもりはなかったので、 誰にも弁解はしなかった。 　６月に入ったある日、自科ゼミ事務局長の白木が、ポツンと守に告げた。 　「７月１日から、事務局の夏合宿があるからみんなで行こう。」 「えっ？　講義は７日まであるんじゃなかったですか？」 「別に休んでもどうってことはないよ。それにその週は、教授の中にも早めに　　休みに入る人がいて、休講も多いんだよ。」 　白木もＮ党系の活動家のはしくれらしいのだが、全然そういう匂いを感じさせない仙人然としたところが守は好きだった。聞くところによると、大学には２・３年遅れて入ったらしく、もう中年の風格すら感じる。数学専攻とのことだが、寡黙で哲学者のような印象を与える人物である。彼に行こうと言われると、守は何故か嫌とは言えなくなってしまった。 　夏合宿は、和歌山県の白浜にある大学のサマーハウスでやるという。確かに、休みに入ってからだと、全学部の学生が殺到して簡単には予約が取れまい。だからこそ、７月１日から行くという日程が選択されたのだ。 　もとより、退屈な教養部の授業に未練はない。守はいそいそと天王寺から特急くろしおに乗り込んだ。今回の参加者は１０名弱である。 サマーハウスは、名所「円月島」のすぐ対岸、臨海実験所のすぐ横にあった。初老の夫婦が管理人をしている。どちらもなかなかに元気な人だ。おっさんは、麻雀がべらぼうに強い。アホなことばかり言っているが、貝類の研究にかけては、結構な権威らしい。保育社のカラーブックスから図鑑を１冊出しているくらいだから立派なものだ。 　合宿とは言っても、汗みどろや血みどろとは無縁だ。午前中、形ばかりの科学技術論の学習会をして、あとは海水浴と釣りとボート遊びである。今ごろクラスメートはあの陰険な奥村助教授の英語の授業を冷や汗を流しながら受けているのかと思うと、申し訳ないような、痛快なような気分である。サマーハウスは自科ゼミ事務局で目下貸し切り状態である。 　海水浴にはまだ少し水が冷たい。それに守はどちらかというとプール党で、塩辛い水は好きではない。そこでもっぱらボート族に専念。オールで漕ぐこの手のボートは、明石公園の池で一度乗ったことがあるが、海では初めてである。最初は、沖へ出るのはおっかなびっくりであるが、そのうち慣れてくるとやみつきになる。いつの間にか、転覆したら到底泳いでは戻れない距離まで来てしまった。船底に寝っころがって波に揺られていると、極楽気分だ。 　日が暮れると、突堤へ出て夜釣りと洒落こむ。ここの釣具は至って簡単、竹竿に糸と針、おもりをつけただけ、浮きすらない。手ごたえだけで釣る玄人好みの一品。これが結構釣れるわ、釣れるわ、ただし雑魚ばかり。それをハウスのおばさんは嫌がりもせず料理して朝餉に出してくれる。 　まったく馬鹿みたいに童心に帰った毎日に突如変化が生じたのは３日目のことだった。午前の学習会を終え、おばさんの昼食の配膳でも手伝おうと腰を上げかけた守の耳に響いてきたのは、何と女らしい声。玄関の方を見やると、２人の女性を含むグループがちょうど到着したところだった。早速顔面偏差値にチェックを入れてしまうのは哀れ男の習性というやつか。二人ともなかなかのレベルと見た。一人はかなり長身、１７０�pくらいある。もう一人は対称的に小柄。これはどうも、どこかの女子大生をスカウトしてきたと見た。まあ、どうせわしらには関係ないわいと無関心を装う。 　だが、好む好まざるにかかわらず嫌でも彼女らは、守の領分へ侵入してきた。ここへ着いて以来、おばさんの食事の手伝いは守の日課のようになっていたのだが、（受験勉強の夜食を自分でつくり出して以来、彼は台所仕事は嫌いでない） 彼女らは当然のように腕まくりで台所へやって来た。一人で何やらもじもじしている守を尻目に、てきぱきと仕事を処理してゆく。居場所をなくした守だが、尻尾を巻いて退散するのは必殺料理人のプライドが許さない。漬物を刻もうと手を出すと、「あ、いいです、わたし達やりますから。」とたちまち取り上げられてしまった。（こいつら、京女か同女か知らんが、良妻賢母ぶってやがるな、この野郎）と自分の彼女でない美女には何故か腹が立つのをぐっと笑顔の下に噛み殺しながら、皿並べに甘んじる守だった。 　もっと許せなかったのは、午後の砂浜である。キャーキャー言いながら、駆け出してきた二人は、何とビキニの水着姿ではないか。恥ずかしながら、ビキニの女性を「生」で見るのはこれが初めてである。それに相棒の男達が一緒になってビーチボール遊びなどしながら水辺ではしゃいでいる。その周辺でうろうろボートなんか漕いでいる守たちのグループは、まことに間抜け以外の何者でもない。 　「おい、もっと沖へ行かへんか？」それとなく、守はオールを握っている野口に声をかけた。「いや、ここの方がええ。」と野口はニヤニヤしている。（おまえなー、）と内心思いながらも、それに抵抗できず、向こうに目が行ってしまうのだった。それにしても二人は人魚のように泳ぎが上手い。 　決定的に許せない事実を知ったのは、あの美女２名が、何と法学部の１回生だと知ったときだった。わが大学の女子学生がビキニで泳ぐとは・・・ちょうちんブルマーが良く似合いそうな理学部の女子学生の面々を想像したとき、守は高校時代の地理の先生の決まり文句、「所変れば品変る」が脳裏に浮かんだのであった。 　　　（７）反暴力のうねり 　大学の夏休みは長い。とりわけ、これという目的を持たぬ者にとっては・・・守は自分自身気付かぬうちに「中途半端病」に陥っていた。夏合宿が終わって実家に戻っても、どこと言って彼には居場所がなかった。勉強したかというとそれほどでもなく、遊んだかというとそれほどでもなく、かといってバイトで金を稼ぎまくった訳でもない。もちろん、彼女が出来た訳でもない。下宿の婆さんは、ちゃんと家賃を取っておきながら、「夏休み中は下宿にいないでくれ。」と、とんでもなく厚かましい注文をつける。もっとも、京都の夏はすさまじく暑く、扇風機すらない下宿になどいる気もしないが・・・守には９月の講義開始がどれほど待ち遠しかったことだろう。もちろん、講義が恋しいわけではないにしても。　秋風が吹くとともに、キャンパスにも活気がよみがえり始める。１１月祭への胎動があちらでもこちらでも感じられる。それに先だって、ひとつの計画が進行していた。 　学内は、現在全共闘の暴力支配が続いている。うっかり彼らへの批判を口にしようものなら、たちまち彼らの集会へ「強制連行」され、「大衆団交」なる吊るし上げに遭う。ここには言論の自由はない。学生寮は彼らに私物化され、「論文選考」に通らないと入寮させてもらえない。そのくせ、本大学の学生でも何でもない労働者などが堂々と「生活」しているのだ。暴力事件もしばしばで、夜間に鉄パイプで襲撃を受け、何ヵ月もの重傷を負わされた者もいる。その加害者を警察に訴えようものなら、「学友を権力に売った。」とお門違いのプロパガンダが振りまかれる。「反権力」を標榜する彼らこそが、学内では「権力」そのものであり、「目的が手段を正当化する」と言わんばかりの無法がまかり通っている。　さて、計画とは「現在無法状態にある教養部で、学園民主化の大集会を開こう」というものである。主たる呼びかけ人は、全学連（全国大学自治会総連合、東大紛争などを起こした「三派全学連」とは全く別物）であるが、影の主体がＮ党Ｍ同盟であることは守も薄々感じていた。だが、守のように組織外にいるシンパ層にも、連日赤ヘルメットのアジテーションばかり聴かされる状態からの脱却を切望する気持ちが強かったことは確かである。そして発表された決行日は１０月２１日、「国際反戦デー」である。 　当日朝、多くのプラカードを掲げた学友が、そして他大学の支援部隊が、本部構内に集結した。こんなにも大勢の「同憂の士」がいることに守は驚き、感激した。誰もが、日頃は表に出られない「地下活動」を余儀なくされている。その鬱憤が今まさに爆発しようとしていた。いざ本能寺は教養部なのだが、そこは全共闘系学生が校門にバリケードを張って、阻止せんと待ち構えているのだ。彼らの手にはゲバ棒や鉄パイプが握られているだろう。 　守は生まれて初めて「血が騒ぐ」のを感じた。我々にはもちろんヘルメットもなく、唯一の「盾」は手にしたプラカードのみ。シュプレヒコールが鳴り響き、行進が開始された。自由への、民主化への行進である。２千名の隊列は力強く教養部正門へ向けて突進した。正門の向こう側には赤ヘル軍団がこちらの様子を探るかのように覆面づらを覗かせている。隊列の先頭が閉ざされた正門の扉へ体当たりを食らわした。守もいつの間にか先頭近くにいる。どうやら生まれつき血の気が多い性なのか。数十名、数百名の圧力がじわじわと正門にかかる。 　「ぐわりゃー！！」守も渾身の力をこめる。その次の瞬間、さしものバリケードが雪崩のように崩壊した。 　「グワッシャーン」 　轟音とともに入口が開いた。一瞬、青空が覗いたようだった。行きどころを失った守たちの力は、一気に加速度を得て教養部構内になだれ込んだ。赤ヘル軍団もこの勢いにはたじたじだった。やがて投石合戦が始まったようだが、勝負はあっという間についた。数分後、教養部吉田グラウンドは集会参加者に埋め尽くされた。風船を持った女子学生も大勢混じっている。明るく、そして和やかな集会だった。一般学生も、最初は遠巻きに眺めていたが、どんどん集会の輪の中に加わってくる者が増え始めた。まともな考えの持ち主なら、守は思う、きっと今日の集会の意義に共感する者があるはずだ。集会はやがて東山通りを下るデモ行進に変わった。沿道の人々が盛大な拍手で迎えてくれる。握手を求める人もいる。ああ、やっぱりここは京都なんだ、と守は実感した。日頃悪口ばかり言っているが、進歩的な考え方を受けとめてくれる良さもここにはある。クラスメート達と肩を組んで歩いたこの日の感動を守は一生忘れないだろうと思った。 　ひとつ大きな風穴は開いた。だが、世の中そうは順調に進まないことを実感させられる事件がすぐ続いて起こった。それは学内が１１月祭に浮かれている最中のことだった。守も、自分のクラスの企画で「クイズ大会」の司会をやっている ところだった。２回生の入谷（彼はＭ同盟の幹部らしい）が、ふと近づいてきてささやくには、兵庫県の八鹿というところで大リンチ事件が起こった。すぐに支援に行ってもらえないか、というのだった。何でも、高校の先生方がある部落解放運動団体に一昼夜監禁されて暴行され、瀕死の重傷を負う先生まで出たという。 理由はともかく、暴力事件には違いない。入谷は、自分がゲバルトに強いのに目をつけていたのかも・・・と守は推測したが、守の父が但馬の出身ということもあって、ここは知らぬ顔をしている訳にはいかなかった。その日の夜、守は八鹿高校事件支援部隊の一員となって、山陰線の夜行列車に乗っていた。 　今度は、相手の事情が少し違う。加害者は、何百年間も代々被害者であった人達だ。何不自由ない生活から突然変異的に発生した赤ヘル共と同列に扱う訳にはいかない。だが、いかなる理由があれ、一方的暴力があったのなら、それは正さねばならぬ。私刑（リンチ）は法治国家においては許されないことだ。 八鹿についたのはまだ未明だった。早朝の集会まで、駅前に座り込んで待たねばならない。もう相当冷え込みが酷しい。ジャンパーを着てくるべきだった、と守は悔やんだ。 　「八鹿高校集団リンチ事件抗議集会」は朝もやに煙る八木川の川原で開かれた。 事件の経過が克明に関係者から語られる。負傷を押して報告に駆けつけた先生もいる。事件は、八鹿高校に、解放団体が「解放研」の設置を要求したことに発端がある。学校側は、すでに「部落研」が存在することを理由に、この要求を拒否した。解放団体側は、「部落研」は「闘う団体」にはなりえないと、強硬に一部未解放部落出身生徒を中心にした「解放研」を認めないのは「差別教育」であると、全県動員をかけて集団下校途中の先生方を拉致して学校体育館に連れ込み、一晩中殴る蹴る、水をかける、辱める等の暴行を加えたものであった。 　役場等いたるところに「八鹿高校差別教育糾弾」の横断幕や立看板が掲げられる異様な雰囲気の町であったが、暴力を許すな、という声も徐々に拡がりつつあった。大きな救いは、事件直後、八鹿高校生達が、この八木川川原に自主的に集まり、「先生を返せ」と抗議行動をとったということだった。保守的な田舎の町ではあるが、生徒達の世の中を見つめる目は真っ直ぐだったのだ。 　守は高校時代、「解放教育」という名のもとに、「部落出身者以外は生まれながらにして差別者だ。」という教育を受けた。その当時、「何かおかしい。」と思いながら聴いたスローガンの誤りが今はっきりと見えてきた気がした。人間は生まれつき平等であるというのが人権問題の大前提である。ゆえに、「生まれながらの差別者」なんてものは存在してはならないのだ。「目には目を」的に、「差別されたらやり返す」運動が崇高な人権擁護の理念と相容れるはずはないのだ。後日聞くところによると、守の出身高校の先生方の大半は、この解放団体に「連帯」して、「八鹿高校事件はでっちあげ」キャンペーンに加わったという。 全く恥ずかしい話だ。（某女性衆議院議長もその一員だったらしいが）明確な証拠により、裁判も勝訴の途を歩んでいる。天網恢々疎にして漏らさず、すべからくそうあってほしい、人間は生まれながらにして無罪なのだが・・・ 　　　（８）合コンというもの、すなる 　１Ｓ１（理学部１回生１組）に初の合コン計画が持ち上がったのは年の瀬も押し詰まった頃だった。「おい、合コンでもやろうや。」という呼びかけに対して、参加の意志表明をしたのは、２０名足らずであった。クラスの残り半分は、女は十分間に合っているか、やせ我慢を張って間に合ってる振りをしているか、行きたいけどその勇気がないか、あるいは男にしか興味がないか、どれかであろう。 中に傑作な反応をした奴がいた。「俺はそんな犯罪的なことはやらん。」と言うので、よくよく聞いてみたら、「合コン」と「強姦」を間違えていたのだった。ちなみに彼は地方県のど田舎出身である。彼はそのとんでもない勘違い発言の責任を取って出席を義務づけられることになった。 　さて集まったメンバーは、正味女に飢えているか、一人では物足らなくて二人目が欲しいか、あるいは単につきあいで来ているか、どれかだろう。守が一番目の範疇に属していることは言うまでもない。 　相手は、奈良女子大の家政学部ということだった。家政学部と言うと、何か手料理でも作ってくれそうなイメージがある。だが、家庭科の先生が必ずしも家庭的とは限らないように、それは幻想かも知れない。 　場所は三条京阪近くの飲み屋だが、女の子と一緒の時に鍋物は似つかわしくないと見たか、会席料理が出るらしい。だが、食べる物のことなど誰も気にしていない。問題は、座席の位置取りである。最初の位置取りが、本日の出来不出来の５０％を握っていると考えてよい。（可愛い娘の横にあたれ！！）とみんな願いつつ、幹事の割り振りを目を血走らせて見つめている。幸い、男女はほぼ同数なので、互い違いに座ることになった。やった！チャンスが２倍だ。左にするか右にするか、あるいは両手に花か?!　 　幹事の中瀬は、手早くクジを作っている。厳正なる抽選の結果が発表され、みんな着席し、最初の乾杯だ。すぐに自己紹介が始まる。最初の奴が長々と身の上話をしたので、みんなつられて長くなっている。女の子は女の子の方で、面接試験のごとく、奈良女子大学を志望した動機を延々とやっている。その間に、守はぐるっと一回り、「面通し」してみる。まず、一番目立ったのが、守の左隣の娘。小造りだが、整った顔立ち、気位も高そうだ。だが、この娘は本日の幹事、中瀬君と高校時代の同級生、どうもかなりの仲らしい。あいた、チャンスの半分がいきなり消えた。と思って右隣を見ると、茶系統のパンタロンスーツに身を包んだ丸顔の娘である。この女性陣の中では一番の長身のようだ。スタイルもルックスもまあ悪くない。やった、次はこの娘だ、と勢い込むと、反対側に陣取った植田益生という男が、もう盛んにモーションをかけている。そう、ライバルのいることを忘れてはいけない。種内競争、自然淘汰なのだ。 　だが、自己紹介が進むうち、ふと守の目を惹いたのが、静岡県出身だと言う娘である。万事控えめに振る舞っているが、芯はしっかりしているようだ。その癖、故郷を離れた一人暮らしの寂しさなどをほろっと漏らすところなどが、たまらなく男の庇護本能をくすぐってしまうのだ。守はその娘の名を頭に堅く刻みつけながら、やがてみんな酔いがまわって座席がオープンになり始めたら、一杯注ぎにまわってお話してみよう、などと考えている。 　様々な理由をつけて乾杯を重ねるうちに、一同の輪にもさまざまな「ゆらぎ」が出始めた。盛り上がるところはアホみたいに盛り上がっている反面、すでにシラケ鳥が群生相となって飛び交っているセクションもある。そのうち、あまり男に相手にしてもらえない女性グループが、「家が遠いから。」とか「寮に門限があるから。」とかいう理由で席を立ち始めた。（おい、それはあかん、反則やで。 ますます競争が激化するがな。）と守が心の中で叫んでみても、どうにもならない。とうとう、静岡の美女までもが友達につきあって帰ってしまった。男の方はもちろん一人も帰らない。守も、仕方なく、植田益生とパンタロン娘をはさんで話題に花を咲かせている。「仕方なく、」というのは、植田益男とは「学内民主化」を志す仲間同士であり、できることなら競合関係にはなりたくないからだ。 　この福岡県出身という娘は、誰かに似ているなあ、と思っていたら、守と４つ違いの妹に雰囲気がそっくりなのだ。それはどちらかというと有り難くないことだった。性格まで似ているとしたら・・・　植田益生は、もうすっかりご執心のようだ。だが女の子の方の反応は、まだ植田には傾いていない。守と植田をまるで天秤にかけるかのように、あっちに振れたり、こっちに振れたりしている。 　守の酒は陽気な性だから、めったなことで腹を立てたりはしない。決して酒そのものは好きではないのだが、父親譲りの体質で少々飲んでも顔に出ないし、人には強いと思われている。だが、ある限界を越えると体が受け付けなくなって全部吐いてしまう。そうなっても意識ははっきりしており、記憶は全部残っている。 　その夜もそうだった。そのパンタロン娘との会話の大半は当たり障りのない世間話だったのだが、守の心の琴線に触れた言葉が一つだけある。それは、「私、ケチな男は嫌いなの。」という言葉だった。デートしたとき、気前よくおごれない男なんて肝っ玉が小さい、というような意味らしい。いかにも博多っ子らしい発言とも思えるのだが、いかに守が物事にこだわらない神戸っ子でも納得できない部分がある。それは、男なら誰でも女の子の前で威勢よく金を遣いたいだろう。 だが、学生の中にも貧富の格差は著しいものがある。例えば、今日の幹事の中瀬などは大阪の医者の息子で、自宅通学でありながら、月２０万の小遣いをもらっている。これは守の生活費の４倍である。僅かな親の仕送りだけで書物代まで工面して細々と暮らしている者もいれば、その何倍もの仕送りを受けた上に、奨学金を何万ももらい、おいしい家庭教師のバイトを掛け持ちして、それでも遊び過ぎで金が足りないなどとこぼしている不埒な奴もいる。どちらかと言えば前者に近い守などは、「俺は彼女が出来ても満足にデートもできないのか。」などと考え込んでしまうのだった。 　結局、守はその日は植田益生の露払いに徹することにした。二人では出にくいことを見越して、三人で外へ出た。鴨川の川原は、１２月にしてはなま暖かく感じる。岸に彼女をはさんで座り、世間話の続き。彼女はまだ男二人の両方の肩に甘えたりして天秤ごっこをやめない。適当なところで彼女を下宿へ送って行く役を植田に委ね、守は鴨川べりを自分の下宿へと向かった。これでよし、自分にはまだまだチャンスがある、とうそぶく守だった。 　後日談である。植田は彼女とうまくいってつきあっているらしい。だが、守にとって誤算だったのは、民主化のパートナーとして期待を寄せていた植田が、全く学生運動のがの字にも興味を示さなくなったことである。彼女とのデートには案の上金がかかるらしい。たった１００円の活動資金カンパさえしてくれなくなったのにはあきれてしまった。「私、ケチな男は嫌いなの。」思わずそう叫びたくなった守であった。 　　　（９）白いマフラー 　湯口雅彦と知り合ったきっかけが何であったか、守は覚えていない。物理学志望の彼とは授業での接点はなかったし、おそらく大学民主化に関係した何かの集会か学習会であろう。背は低く、ずんぐりした体型の湯口であるが、にきびだらけの童顔にくりっとしたいかにも純真そうな目が印象的な青年であった。第一印象、彼とは抵抗なく友達づきあいができそうな気がしたものだ。事実、彼はどんな場面でもにこにこと笑っている温厚なタイプで、どちらかといえば直情型の守とはウマが合った。ただ、湯口の趣味はバイクとギターらしく、これは全く守には縁のないものばかりで、一緒に遊ぶ機会はなかったが・・・ 　大学附属の看護学校とクリスマスパーティーをやらないかという話が持ち込まれて、湯口と守がいつの間にか実行委員にされていた。実は守は中学生の頃にかなり本格的なゲームリーダー講習会を受けており、パーティーの余興ならまかせといてくれ、という自負がある。そこへ湯口のギターをもってくれば、これはもう鬼に金棒である。食べるものの方は、看学の女の子らが用意してくれるということだった。そしてパーティーは歌にゲームに大いに盛り上がり大成功であった。ただし、少なくとも実行委員の二人はカップル形成に成功しなかったことは確かである。 　そんな湯口が学生運動に傾斜して行ったのは、何を頼まれても嫌と言えない性格と、彼がある負い目を持っていたからである。湯口は高校２年までは、バイクとフォークギターが好きな片田舎の一高校生であった。（その当時は高校生のバイク通学は学校公認が普通だった）ところが、ある日彼はバイクで中年女性をはねて死なせてしまった。その事件を契機に湯口は変わった。死にものぐるいで勉強するようになり、周りがよもやと思ったＫ大学理学部に合格したのである。だが、あの事件の記憶はいつも心のどこかにあって彼を自己犠牲的行動へ駆り立てていたのである。もっともそんなことを守が知ったのは後日のことだった。 　守の目から見ても、湯口の没入ぶりは急進的すぎるように見えた。どう見ても無理しすぎだ。その「忠誠度」が評価されて湯口はどんどん「組織」の幹部級へ近づいて行っているようだった。彼のような優しい性格が「組織」の幹部に向いているとは思えなかった。「自分が動く」ことと、「他人を指導する」こととは全く別物のはずだ。 　冬休みが明けて間もないある日の朝、湯口は民主化志向の学生達のたまり場になっている生協の喫茶店「エスポワール」でブランチをとっていた。少し離れた席には湯口と、１つ上すなわち２回生の幹部とがしきりに話し込んでいた。会話の内容は聴こえないが、どうやら湯口は幹部の上級生にハッパをかけられているらしい。組織の維持拡大のためにもっと動け、とでもいうのだろうか。 　湯口が突然失踪したという情報が舞い込んできたのは、翌日の昼のことだった。前夜、ある友人のところで徹夜で話し込んでいた湯口は、その友人の制止を振り切って東山の山中へ姿を消したと言う。かなりノイローゼに近い状態だったようだ。早速友人達に連絡がとられるとともに、警察にも捜索願いを出すことになった。その午後、ある上級生の下宿に１０数名のメンバーが集まった。だが、東山と言っても北は大文字から南は花山まである。こんな人数ではとても広い山域はカバーしきれない。守はそれとなく、「組織」の動員は頼めないのか打診してみた。だが、「組織」の方では、「防衛上の観点」から大勢の人間は出せない、と言っているらしい。つまり、警察と一緒の捜索になれば、公安関係へ情報が漏れる、というわけだ。確かに、警察は湯口が学生運動に関係していたと言う情報をすでにつかんでおり、その筋の情報を知りたがっているフシがある。だが、ここは人名が一人かかっているのだから、何とかしてほしかった。結局、湯口と友人づきあいのあるメンバーしか集めることができなかった。 　一同は湯口が登って行ったという鹿ヶ谷の登山口をまず登った。尾根に出たところで道は南北二股になっている。そこで人数を二等分し、守らは北へ向かった。また分岐点があり、二つに分かれると、もう人数は守も含めて３人になっていた。　「ゆぐちぃー！」３人はさっきから呼び続けている名を何度も大声を振り絞って繰り返した。そのうち雨が降りだした。雨具は何も用意していない。そのうち、道も暗くなってくる。懐中電灯は持ってきているが、霧も出てきて足元くらいしか確認できない。滋賀県の三井寺の方へ向かっているはずだった道は、そのうち道でなくなった。薮の中をずぶ濡れになって進む３名。もう声を出すこともしなくなっていた。下手をするとミイラとりになりかねない。何とか人里へ出たいという願望しかなくなっていた。どれだけ悪戦苦闘しただろうか。ようやく一つの街灯が見えた。田舎道だった。電柱に大津市○○という地名表示が確認できた。３人とも全身濡れネズミで服もカギ裂きだらけになっている。これが暖冬だからよかったものの・・・３人はお互いの姿を見て笑い合った。湯口のことを考えたら不謹慎なのだが、何故か笑いがこみ上げてきてたまらなかった。 　徹夜の捜索も功を奏さず、湯口は発見されなかった。守らは一番電車で京都に戻り、仮眠をとった後二度目の捜索に向かったが、それも無駄足であった。 　鹿ヶ谷の林内で湯口の首吊り死体が発見されたのは、翌々日のことだった。狩猟に入っていたハンターの猟犬が見つけたらしい。死亡推定時刻は、守らが大津に下りた日の朝ということだった。だとしたら、あのときまだ彼は生きていたのだ。捜索隊の呼び声を彼は山中でどのような思いで聴いていたのだろうか。 　東山二条にある寺に遺体は安置され、郷里から家族も駆けつけ、仮葬儀が営まれた。棺の横に置かれた白いマフラーは彼がいつも身につけていたもので、妹さんの手編みということだった。彼はそれで首を吊り自らの命を絶ったのである。遺族の沈痛なありさまは守達には耐え難い光景だった。彼の悩みを救えなかったどころか、ますます窮地に追いやってしまった気がしてならなかった。彼の失踪前日、湯口を「詰めていた」幹部は、今朝会ったとき、５千円札を一枚突き出し、「おい、これでも仏さんに備えといてくれや。」そう告げたきりだった。それをもって、「組織」全体の値打ちを云々するつもりはないが、社会進歩なるものが湯口のような犠牲者を前提としてしか達成されないのなら、そんなもの真っ平御免だと守は思った。 　守は葬儀場を後にした。いつの間にか一面に白いボタン雪が降り積もっていた。寺の土塀を覆いつくしたその雪が、守にはあの白いマフラーのように見えてしかたがなかった。 　考えてみたら・・・俺は湯口よりもっと孤独なのかも知れない、ふとそんな思いがますます守の寒気を加速した。（後編に続く）

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